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global-standardの限界 [ブログ]

Global-Standardという言葉が、ある時期世間に蔓延していたが、最近はあまり聞かなくなってきた。

ちょうど5年前くらいに企業の会計基準について、従来の日本的会計基準から米国のそれに判した国際会計基準の導入あたりがピークだったように思う。

Global-Standardとは和訳すれば「世界標準」である。

基準の統一化は、一見すればあらゆる障壁を超えて、全てが普遍化され、これまでのde-facto-standardによる不便さが解消される考えだと思っていた。

de-facto-standardの例を挙げれば、VHSとベータのビデオソフト規格とか、テレビゲーム機などが身近な例としてイメージできる。

ただ、それはモノに対しては歓迎すべき事ではあったが、東西冷戦の終結により、「西」と「東」の垣根が無くなった世界で、アメリカによる「思想」の統一化に至り、その「押しつけ」に対して潜在していた反米感情が加速する要因にもなったと考える。

即ち、global-standardとは「アメリカ基準」であり、アメリカの利己により世界は動く、という「思想」である。

9-11テロ事件は、そうした反米感情の頂点から引き起こされたと考えるのは、アメリカ基準により、石油権益を掌中に収めようとしてイスラムと対立する結果だと思えるのだ。

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アメリカがglobal-standardにより成功したのは、その歴史にある。

多民族国家としてのアメリカには、私たち日本人のような長い年月をかけて醸成されてきた「郷土」意識は無い。異なる宗教を信じ、異なる国より移民してきた彼らを纏めるには、宗教・民族を超越した「基準」が必要であった。それが、アメリカ合衆国という国家に対する忠誠心の原動力ともなり、私たち日本人を含む、東洋民族には真似の出来ない「思想」なのであろう。

戦前の日本にも「愛国心」なるものがあったが、それは国家に対する忠誠心と云うより、戦時下において洗脳された天皇への忠誠心を軸とした「まやかし」であったと考える。

ヨーロッパ諸国も、アメリカのように国家への忠誠心が強い国は無いと思う。イギリスも王室への忠誠心が前に出ているし、その国の独裁的権力を持つ国家元首への忠誠心、ドイツに代表されるような、民族に対する誇り、旧ソ連のように「イデオロギー」に対する忠誠心などが良い例だろう。唯一アメリカ的国家思想を有するのは、革命により永き伝統を持った王室を革命により打倒して成立したフランスくらいだろうか。

中東諸国においては、イスラム教を絶対とする原理主義に基づき、1,400年間不変の宗教が支配している。

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私たちが、「明日から英語が母国語となる」と言われても、正直素直に受け入れる事が出来るだろうか?生活全てをアメリカナイズしろと言われて、それを素直に容認できるだろうか?

極論から云えば、反米の集団には、アメリカによるglobal-standardが、露骨にそう思えたのかも知れない。

アメリカこそ正義、アメリカ流こそ本流、そうした中、アメリカを端に金融パニックが発生し、世界規模での大不況に陥ったのは、世界がglobal-standardされていた結果ではなかろうか?アメリカに依存していた国ほど、その影響は深刻であり、それは私たち日本人が一番痛感している筈である。

アメリカは、その痛手の中、オバマ政権が発足し、「Change」を標榜した。21世紀の世界は、もはや一国が覇権を求めるのではなく、global-standardという型に嵌める「思想」から、global-harmony、即ち「世界との調和」を目指していくように「Change」すべきではなかろうかと思う。


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予定調和 [ブログ]

 

 

最近、「予定調和」という言葉が私の頭にこびりついている。 「予定調和」とは、宇宙は互いに独立したモナド(不可分の単純実体で、非物質的本性を有し、表象と欲求とからなる)からなり、宇宙が統一的な秩序状態にあるのは、神によってモナド間に調和関係が生じるようにあらかじめ定められているからであるという学説である。 簡単に云えば、「決められた筋書きにより、結論は決まっている」事と意訳できる。 つまりは、人間の人生など、既に「予定調和」により、その経過と結末が決まっており、仮に運命を切り開いた、人生の奈落に落ちたとしても、それは予め決まっている事なのだという説である。 私は、この36年間の人生で、自分の尺度で考えるものの、幾度となく修羅場を経験し、栄光と挫折を経験し、平凡ながらも安寧な現在に至っている。今の自分があるのは、時には常軌を逸し、そして軌道修正してきた過去の様々な経験による積み重ねの結果であると思っている。 時として、その転換期が、人智を超えた何かによって誘われた事もあったようにも思えるが、全ては自分の意志によって選択してきた。 もし、「予定調和」が存在するのであれば、私の不真面目で堕落したあの時も、自らの努力で勝ちえたあの時も、成り行きで過ぎたあの時も、全ては私が生まれてきた時より運命づけられてきた「過程」で、当然の帰結である事になる。 だからこそ、私は、この「予定調和」という、人間に夢も希望も与えない不条理に対して否定をしたいのだ。 「運命」を変えるのは、決して決められたレール上の話ではなく、時として「運命」という名の列車から飛び降りる事で、「想定外」の、神の意志を凌駕する「人間」の力強い意志により、成立するのだと思う。 だって、つまらないじゃないか?予め決められた僕の一生なんて・・・。 何かをして、その結果が、自分の努力や苦労によるものではなく、それが「運命」だったなんて・・・。 だから、私は、常に「予定調和」に逆らうような人生を歩んできている。人間の一生を眼に見えない「神様」「運命」に翻弄されてたまるものか、と。 ------------------------------------------------------- 転職活動で、人材紹介会社のアデコより、とある仕事を紹介されました。 福岡に本社があり、従業員40名程度で設立10年目の小さい会社ですが、東京への進出を計画しており、立ちあげのスタッフを募集していると。 求める人材は、『自ら企画し、戦略を立て、行動できる』営業企画経験者で、無形物の企画・提案経験者、新規事業開発経験者を優遇としています。 まだ東京に事務所も無く、そこから2~3年後には福岡本社と同数の社員規模にまて拡大するという事で、通常の求人サイトでは募集はかけられず、人材紹介会社に依頼したという事らしく、多くの登録者の中からアデコは私を推薦してくれるそうです。 正直、悩みましたが、今の環境で天井こそ見えて、底の見えない仕事をしているより、ゼロから生み出す苦しみと、それを達成した時の喜びを感じられる仕事なら、迷わず後者を選びたいと思います。 (もっとも、アデコより「推薦」してくれるだけで、相手先のお眼鏡に叶うかどうかはわかりませんが。。。) ベンチャーなので、倒産リスクも高いですけど、ダメなら別の選択肢を見つければいい、そんな思いもあり、面接を受ける事にしました。 運命は、己の強い意志でどのようにも切り開いていく事が出来る、僕はそう信じて生きてきました。だから『予定調和』などという諦観に屈せず、自分の人生は誰が決めたものではなく、自分の意志、即ち自己責任で進んでいくべきだと僕は考えます。 運勢暦では、一歩後退して積極的なアクションを起こすべきではない、などとありましたが、今年、年男の今年こそ、次の人生に向けてのアクションを起こす最後のチャンスだと考え、「運命」があるなら、そいつに贖ってでも進んでいこいと思います。


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「Blogが個人レベルで浸透しない理由」 [ブログ]

新年あけましておめでとうございます。

新年早々こういう事を書くのは興ざめですが、表題の件、個人が普通に日記感覚でBlogを楽しめない理由について、私自身の感想を申しあげます。

日記へのコメントやトラックバックなどに、セックスやエロに関連する狂った書き込みを平然と行っている連中の存在が大きな理由だと思います。

彼らの精神構造や人格については、述べるだけ無駄だとおもいますが、不愉快極まりません。

私自身、自分の考えや旅行先での体験談などを広く知ってもらいたい気持ちから始めましたが、そんな気も無視した連中が横行されると、自然とBlogに書き込む事が億劫となってしまいます。

恐らく、この日記の内容も見ずに、そうした連中は書き込んで来るでしょう。

こうした中、SNSが主流になっているのは自然の理かも知れません。

情けない話です。今回はそうした状況を愚痴りたくて日記を書きました。


田母神空幕長の論文を読んで [ブログ]

昨日、航空自衛隊の制服族トップの田母神俊雄航空幕僚長による論文、 「日本は侵略国家であったのか」を読んだ。

当初、ネットニュースでその存在を知り、現役自衛官トップが「日本は侵略行為をしていない」などと論文を書き綴った」なる表現で大東亜戦争を肯定する旨を主張した、とあり、興味を持って読んだ次第である。

【論文(pdfデータ)】
http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

読んでみて・・・正直稚拙な高校生レベルの内容で失望した。
私見を述べれば、「論文」とは程遠い、幾多の書物を引用しまくりの「高校生の読書感想文」程度の内容であったし、学術的見解に基づくような参考文献でもないし、何故にアパグループは、こんな内容の論文を最優秀作品として選出したのか理解に苦しむ。


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私自身、大東亜戦争を含めた「15年戦争」、即ち満州事変から終戦までの戦争は、「正義」とは言いきらないまでも、決して「犯罪」であるとは思わない。

そもそも、戦争に「正義」も「悪」も存在し得ないのだと思う。

ただ、云えるのは「勝者が歴史をつくる」のであり、何故、日本が「侵略」をせざるを得なかったという国家的事由は勘案されていないまま、戦後63年が過ぎてしまい、誰として大東亜戦争の「意義」の統一見解を有していないのが実情である。

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「戦争」には、いくつかの種類があると考える。

1・他国よりの国家的侵害を被り、「自存自衛」を全うする為の対抗策として宣戦する。
2・窮乏する国家情勢を打破すべく、領土拡張により生命線を確保する為に宣戦する。
3・民族的、宗教的イデオロギーの相違による感情的否定により、対局する勢力を殲滅する為に行う戦争。
4・独裁的国主が自己の栄達の為に他国の財産を奪う為に行う戦争。


「4」については、中世においては「暴君」と言われる国王などが行っている事例もあまた存在する。私の知る限りでは「オスマン帝国」が東ローマ帝国の首都コンスタンティノーブルを陥落させたような「侵略」戦争が例として挙げられる。
また、これは「3」のように、「欧州キリスト教」と「イスラム主義」という宗教的見解の相違による対立による「十字軍戦争」として200年に及ぶ戦争の一翼としても分類される。

「大航海時代」により、世界は海でつながっている事がわかって以来、船舶技術を有する国家は、遠く「未開」の地を武力によって「侵略」し、植民地化した土地から人間や資源財産を「搾取」した事例もある。わかりやすい事例が、アフリカを植民地化し、黒人を奴隷として強制連行してアメリカ大陸などで奴隷として使用したような行為である。
これは「4」の「国家元首」が、「為政者総体」即ち国政を担う政治家や官僚の施策に置換された事である。インドも同様にイギリス国家によって侵略蹂躙されたのである。

「香港」も、対中国(清帝国)貿易で利益が出せず、関税緩和を中国政府と交渉しながらも不発に終わったイギリスが、「アヘン」を中国国内に流入させて貿易赤字を解消させた行為を、中国政府が取り締まったのだが、その取締りを、イギリスへの国家的侵害と改竄して議会承認のもと、「報復」として中国へ武力行使して屈伏させた代償として「侵略」した。いわゆる「アヘン戦争」である。

 


では、日本はどう考えるべきか?これは一個人の拙い私見として述べたい。

 

【日清戦争】
朝鮮との対等外交による国交樹立を企図していながら、朝鮮を「属国」として見ていた清王朝との「利害」対立から、武力によって結論つける為に行った戦争。
これは上記定義「1」の亜流版であり、日本・中国双方の「朝鮮におけるイニシアチブ」を巡る武力解決である。

【日露戦争】
中国大陸で「権益」を確保した日本を小賢しく考えたロシア帝国による精神的圧力のみならず、あわよくば日本本土さえも「侵略」しようと動き出したロシアに対し、「国家存亡」の窮地に追い込まれた日本が、「自存自衛」を全うする為に行った戦争。
これは上記定義の「1」に相当し、「窮鼠猫を噛む」とも言える背水の陣である。

【第一次世界大戦】
日露戦争後、膨れ上がった軍事費等により国家財政が逼迫する中、中国大陸に権益を有するドイツの利権を奪取する為に行った戦争。
これは上記定義の「2」に相当し、「侵略」されたのはドイツである。

【シベリア出兵】
第一次大戦により、五大列強国の仲間入りをした日本が、調子に乗って共産主義国家となったソビエト連邦に他国と一緒に「内政干渉」した戦争。
これは上記定義「4」の亜流である。

【満州事変】
諸説が飛び交うが、私は石原莞爾を中心とした関東軍による「謀略」であると思う。但し、満洲への「侵略」は、下記のような例え方ができる。

≪ボンクラ経営の大企業が、収益を見込める子会社の経営を放置し、一切の債務保証を含めた支援を行わず塩漬けにしていた。それを急成長するベンチャー企業が目をつけ、その子会社を買収する為に敵対的買収に着手した≫

宣戦布告するのには「大義名分」が必要で、後世、それが日本の「謀略」として非難されるが、それは結果論でしかない。
これは上記「1」~「4」に定義するのは難しいが、「侵略行為」である事は間違いないが、決して「悪い」行為であるとは言い切れるだろうか?

【日中戦争】
盧溝橋における日中両軍の衝突に端を発した戦争であるが、これは、諸論があり、

A:蒋介石国民党軍と日本軍を戦わせる為に中国共産党が仕組んだ謀略
B:蒋介石国民党軍が日本軍を挑発する為に攻撃を仕掛けてきた。
C:満州事変のように日本軍の謀略により戦争を仕向けるように誘発した。

私は「C」だと思う。これは陸軍参謀本部において、石原莞爾はこの謀略に憤りを訴えたが、参謀たちは、「石原さん、あんたが満州でやった事を私たちも実践したまでだ」と一蹴すると石原莞爾は言葉に詰まった、という逸話もある。

この戦争は、上記定義からすれば「4」に該当し、奢り昂った日本軍の愚行であると私は思えるのだ。

ここでは「南京大虐殺」と呼ばれる事件の真意については割愛させてもらう。

【大東亜戦争(太平洋戦争)】
日本は当時、中国とのみ戦争をしていた。にもかかわらずアメリカ・イギリスをはじめとした欧米列強は、一方的に蒋介石国民党軍を支援し、日本を非難し、経済的制裁まで加えてきた。欧米列強とも対等に話ができる「極東の島国にサル」が強大化するのを恐れたのだろうし、何より70年前までは「チョンマゲ」の未開の土人たちがここまで強大な力をつけた事を妬んだのもあるのだろう。

「ABCD包囲網」とも呼ばれる石油輸出禁止などの経済制裁は、中国と交戦中の日本にとっては痛恨であったし、それを打開するためのアメリカとの外交交渉は、「ハルノート」に代表されるように、アメリカへの屈伏を叩きつけられるような、もはや「外交」とは乖離したものであった。

この戦争は、上記定義の「1」「2」であるが、もう一点、自分都合で白人社会以外の民族は「三流」扱いしてきた欧米諸国への乾坤一擲の鉄鎚を下す為の「男気」、それに派生し、日本以外のアジア諸国はなおも欧米に植民地化され搾取されている現状を打破し、「大東亜共栄圏」を確立すべく、壮絶な敗北を想定しながらも立ち上がったのであると思う。

但し、それは後世の結果分析であり、陸軍を中心とする多くの軍事官僚たちは、「勝てる」と根拠無い精神論で戦争に突入していったのだとも考える。


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日本が「侵略」した事は、まぎれもない「事実」である。

しかし、その「侵略」の意義と正当性は誰として述べていない。

私は常々、日本政府をして、先の大戦に至る経緯を「戦後の決算」として政府見解として内外にアピールすべきだと提唱している。

田母神航空幕僚長の今回の論文騒動は、大変不愉快であるのは、かも稚拙な内容しか書いていない事もあるが、これでまたマスコミにより「歪曲」された戦争論義のネガティブキャンペーンが展開されると、「戦後の総決算」に水を差されてしまい、「正しい歴史観」がますます違うベクトル作用がされると思えてならない。


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